植村 直己という生き方

ジョン・ミューア・トレイルが大変そうなんて、そんなレベルではない。
これが冒険家なのかと、頭をガツーんとやられた。
五大陸最高峰登頂のイメージが強かったので、生粋の登山家と思っていたが、
たしかに犬ぞりで大氷原を走ったり、いかだでアマゾン川を下ったり、
フィールドは広かった。まさに冒険家。

基本的な発想がまっすぐながら、逆に常人には考えつかない。
冒険の前に現地でしばらく暮らして、必要なスキルを得たり、
情報を収集したり、時には「家族」を作ったり。
北極の際にはテレビ局のサポートがあったようだが、
基本的に近道、カンニングはない。
あまりにも正面突破な生き方が、すごく気持ちがよい。


一方、植村さんの「凡人」っぽいところに非常に惹かれる。
さすがに強靱な体力には凡人っぽさは皆無だが、
それも元々備わった者でなく、日々の隠れた努力の賜物。
正しい精神力と興味のベクトルが合えば、自分にもできるのでは、
と錯覚させてしまう素晴らしさがある。
繰り返しになるが、生き方は非常に奇抜ではあるが、
全ての発想の元は、ある種当たり前のところから来ている。
それを実行するだけの、本当の常識力が備わっていたということか。


アール・ナイチンゲールがこんなことを言っています。

Rollo May, the distinguished psychiatrist, wrote a wonderful book
called Man’s Search for Himself, and in this book he says:
“The opposite ofcourage in our society is not cowardice…
it is conformity.” And there you have the reason for so many failures.
Conformity ― people acting like everyone else, without knowing why
or where they are going.


「勇気」の反意語は「臆病」ではなく、「画一性」。
この画一性こそが、多くの人生における失敗の原因であると。
植村さんも、どこかで読みましたが、非常に臆病であると本人が認めていた。
臆病ながら、なぜあんな大それたことができたか、
やはり画一性から完全に自由だったからなのでしょう。


KYなんて言葉がはやるくらい画一性が「大事」にされる日本において、
植村さんのような発想を持つことは本当に難しい。普通に勉強して成長してしまうと、
こんな発想が当たり前にできなくなります。
戦後の偉人の自伝をしばらく読んできましたが、大きな成功をおさめた人間ほど、
学歴が乏しいことに気づきます。日本でいう学歴というのは、(結果として)
植村さんが持っていた自由さと反比例するもののようですね。


文章も真正面から書いてあり、冒険の実際を垣間見ている感覚に陥ります。
性生活などの描写までも生き生きしており、非常にリアル。
文章の間にも、壮絶な苦労が垣間見える。


日本人としてこんな方がいたのだという事実に、誇りに思えると共に、
植村さんの生き方が非常に稀になってしまうということが、なんだか寂しくもあります。
もちろん日本に限る話ではないのでしょうが。


新装版 青春を山に賭けて (文春文庫)

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極北に駆ける (文春文庫)

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